【SPEC】現実と虚構の境界線設定【公安零課】

テレビドラマ研究家の古崎康成さんがツイッターで「現実と虚構の境界線設定」なる理論を展開しているので、まとめてみた
ここであげられているドラマについて、情けないことに見たことがないので、自分なりに「現実と虚構の境界線設定」を解釈してみる。
テレビドラマは、映画や演劇と違って、「テレビを見る」という行為が非常に現実に密着しており、時として人はテレビの中で起こっている出来事を現実に起こっている出来事だと誤認してしまう危険性がある(ここでH.G.ウェルズの『宇宙戦争』に触れようとしたのだが恥ずかしさで顔から火が出そうになるくらい壮大な勘違い)。
あるいは、現実社会と密着しているため、現実と違う設定が出て来たときに、それを視聴者の中で整合性を取らせる、補助線のようなものが必要になってくるのだろう。これが自分なりの「現実と虚構の境界線設定」の解釈である。
さて、『SPEC』である。『SPEC』のなかで最大の「虚構」は、「SPECの存在」であることは言うまでもない。
それは、『ケイゾク』の続編として『SPEC』を見て来た自分も、最初から疑問に思っていた部分だった。
そして、そういう意味での「現実と虚構の境界線設定」は実は、「公安零課の存在」だったと言えよう。
公安零課がSPEC HOLDERの存在を闇から闇へ葬り去って来ていたことにより、「その世界に存在するにも関わらず」一般人が誰も信じていない「SPEC」を取り扱うドラマが生まれたと言える。また、SPEC HOLDERの存在を公然のものとしてしまったら、丙の回で馬場管理官が取り乱してしまったように、法秩序が乱れた世界となってしまうであろう。
『SPEC〜天〜』が「転」であるのは、植田プロデューサーが『漸ノ篇』のインタビューで言っているように、公安零課のトップである、津田助広が死んだこと、つまり、公安零課が壊滅したことが大きい。「現実と虚構の境界線」が取り払われることで、『SPEC〜結〜』は一気に虚構の世界へ飛び立ったわけである。
『ケイゾク/映画』では、赤い煙が出てくることで半ば強引に現実から虚構に飛んだのだが(そこが自分は気に入っているのだが)、『SPEC』はある意味、一段ステップを設けていて、作劇的にはこちらのほうが巧妙なのだろう。

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