【SPEC】映画化への不安材料

「SPEC」の映画化、確かに喜ばしいことだが、不安材料もある。
こんなことを書くと必死に作っている製作陣に失礼かもしれないが…


・公開時期が2011年春と、ドラマの終了2010年12月から少し時間が経っている。その間、何らかの動きがあるならまだしも、コアなファンでも、なかなかSPECに対するテンションを維持するのが難しいのではないか?
・間隔が空くことで、「翔」からSPECを見る人が増えると考えると、連続ドラマで、謎を残しつつ終わったが、その謎を明らかにすると言っている。「翔」(スペシャルドラマ)から入る視聴者に撮ってみたら、そんな謎など知らないわけでで、置いてけぼりにされる感覚をあじわうことになるのではないか。
・連続ドラマでは、複数の脚本家や演出家がいるので、キャラクター像が大きくぶれることはないのであるが、ドラマからの映画化の場合、メインの演出家のみの演出となるので、演出やキャラクターが極端になるのでは。「ケイゾク/映画」の場合、柴田のキャラクターがかなり極端になってしまったのも不満点のひとつだった。
・確かに、「ケイゾク/映画」より良いものが出来るという期待があるかもしれないが、「ケイゾク」の出発点は、(TBSの)ドラマの固定概念を打ち破るという破壊衝動で、インタビューなどを見ると植田プロデューサーなどはドラマづくりよりも上層部との論争に力を使ったようなことを話している。堤監督も植田プロデューサーも若い時期だからこそ出来た作品だったと言える。そして、「ケイゾク/映画」も、その破壊衝動を受け継いだ作品だったと思っている。これに対して「SPEC」は、そうした破壊衝動という要素が少なく、「完成された『堤作品』の制作スタイル」を打ち出して来た感じがする。そういった部分で、冒険が少なくなりはしないか。
以前に記載したとおり、未詳のメンバーが増えるとしたら、未詳の微妙な空気が変わってしまいそう。
・これに限らず、新キャラクターが「SPEC」になじむかというのが「続編モノ」一般に共通する不安材料である。
・さらに、瀬文に関する過去の設定。いわゆる「後付け設定」は、失敗することが多いので、不安材料だ。「ケイゾク/映画」の柴田の父に関する設定は、かなり無理のある設定で、失敗だったとも言えるだけに、「無理のある後付け設定」は本当は勘弁。もちろん、当麻の過去に関する設定は、「後付け設定」ではないので、不安材料ではないのだが。
・映画ファンからは、たまに、「テレビサイズの物語は、映画のスクリーンになじまない」みたいなことを言われる。そして、「映画ならではのスケール」という言葉があるが、正直意味が分からない。この言葉を意識して作られるよりも、1時間枠を2本、くらいの意識で作ってほしい。ケイゾクのラスト3話は、正直下手な映画より面白かったと思うし。

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です