【SPEC】文系人間が量子力学やパラレルワールドを語る(パラレルワールド編)

『SPEC』の裏テーマとして物理学、特に量子力学というものが垣間見えた。
それに付随する形でパラレルワールドというのがあったわけだが、特に『SPEC〜結〜』に至り物語の重要なファクターとなる。
そういうわけで皆さんの関心も高いようで、無茶振りされてしまったので、文系人間が文系人間なりに『SPEC』に登場する量子力学やパラレルワールドについて、『SPEC』に出てきた言葉を出発点に、現在の物理学上どういう解釈が成り立っているかということを書いていきたい…のつもりだったが、今回はSPEC上の話になってしまうだろう。
今回は、パラレルワールドについて書く。


まず、明確にしておかなければならないのは、物理学におけるパラレルワールドというのは、互いに干渉できない(新たな解釈も生まれてきているようだが)別の宇宙のことであるが、『SPEC』の世界では、地球自体がパラレルワールドを行き来するといった独自の設定が存在することである。
パラレルワールドについては、GIGAZINEに非常にわかりやすい記事がある。
これを見ればだいたいわかっちゃうと思うのだが、一応、「SPEC」と比較させて記載していく。
【バブル】
セカイや青池潤がパラレルワールドの一つの宇宙として表現することのある「バブル」であるが、物理学の世界においては、光より速い速度で遠ざかっていたりして、互いに観測のできない宇宙を「泡の宇宙」と呼んでいる。それらの宇宙においては、我々の地球が存在する宇宙は別の物理定数が働いていると考えられている。
『SPEC〜結〜漸ノ篇』の湯田のセリフで、「〜つまり、我々の世界の物理定数とは全く異なる世界が複数あるのではないかと考えられてる」というのが、これに近い。
【ブレーン理論】
当麻「この世界は高次元の時空、バルクに埋め込まれた膜のような時空ではないかというブレーン理論に立った場合…」。『SPEC〜結〜漸ノ篇』のこのセリフは、ここまでは物理学における「ブレーン理論」と一致する。
我々の三次元世界が、さらに高次元の時空のなかに膜(membranes)のようにして存在する、つまり、三次元の中に二次元の膜が漂っているような感じで、我々の宇宙も膜のように漂っている、という仮説である。『SPEC』独自の設定として、膜同士が交錯する、という設定になっている。
【多世界解釈】
前回も少し触れたが、量子力学の解釈の一つで、シュレディンガーの猫の例で言うと猫が生きている世界と死んでいる世界の分岐が起こり、次々と世界が枝分かれしていくというもので、観測者は分岐した世界の一つの世界に存在するというものである。
甚だSFチックな解釈であるのだが、SPECにおいては、当麻がコペンハーゲン解釈の立場に立っていたおり(つまり、重なりあった状態の収縮を認める)、『SPEC〜結〜爻ノ篇』においては、シャボン玉が重なり、一つが割れる描写があったことなどからすると、SPECでは多世界解釈は取らないという認識でいいだろうか。
【堤監督の解釈】
『爻ノ篇』のラスト、当麻がパラレルワールドの中をにじんだ状態で漂っているシーンを、堤監督は『SPEC 全記録週』でこう解説している。
「無間の地獄にずーっと落ちているというイメージです。地面についても、また次の地面があって、という。究極の連続したミルフィーユの中をずっと飛んでいるってことですよ。それを瀬文がばしっと止める」
そして、このミルフィーユを、仏教でいう六道(りくどう)、人間界や地獄に例え、それを超えた巨大な視点のところに「朝倉」という抽象概念が存在している、というふうに表現している。
つまり、SPEC的なパラレルワールドを包括するさらに大きな世界があって、その大きな世界の中に「朝倉」が存在するというわけである。

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です