【SPEC】ケイゾクを見ていない人のために パート8【ケイゾク】

前回パート7の続きである。もういい加減にしろよ
今回は、「1999年」という時代背景について書く。


以前の記事にも書いたが、『SPEC〜結〜爻ノ篇』のパンフレットで、評論家の宇野常寛氏が「『ケイゾク』から『SPEC』へ」という評論を寄せている。
不遜にも、この評論と違うことを書くことによって、1999年における『ケイゾク』の位置付けを考えた。
その評論は、「ノストラダムスが予言した『世界の終わりはやってこない。1999年に青年だった僕たちにはその程度の諦めはついていた。だからこそ、僕たちは平和で退屈な日常をひっくり返すためのフィクションを求めていた」という一文で始まっている。
同じ1999年を生きた人間として、1999年についての認識には異論がある。
日本は、1997年の山一証券の経営破綻、1998年の日本長期信用銀行と日本債券信用銀行の経営破綻など、金融不安に端を発する不況のさなかにあり、就職氷河期と呼ばれる時代で多くの若者が不安定な身分に置かれていた。
また、1989年から1995年にかけて起きた一連のオウム真理教事件、1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件、1998年に起こった和歌山毒物カレー事件といった凶悪犯罪の衝撃も残っていた。
そんな不安定な社会の中に生み出されたのが、『ケイゾク』というドラマだったと考える。
パート2でも書いた西荻弓絵さんのコラムでも、『神戸の酒鬼薔薇事件』(神戸連続児童殺傷事件)の衝撃について触れられている。
「『ケイゾク』から『SPEC』へ」という表題のわりには宇野氏が『ケイゾク』について語っている言葉は少ないが、「世界はもうこれ以上変化しないという前提と諦念の上で、人間の『心』だけが無限に肥大し、想像を超える変化を見せ、そして底知れない闇の存在を示すことで展開する物語だった」と述べている。
私の解釈は、少し異なる。
ケイゾクにおいては、世界は変化しないのではなく、我々の世界に対する認識の限界が明らかなり、また、人間の認識力は真実のほんの一端しか知ることができないと結論づけた。柴田と真山が最終的に戦うことになるのは、犯罪者ではなく、犯罪を犯す「人間の心」あるいは「人間の心の中の悪」あるいは「悪」そのものであり、柴田と真山は「犯罪」とは何かということを問い続け、最終的に「正義」とは何か、「悪」とは何かいうことに問いつづけるのである。
つまり、社会の不安定さを人間の認識力の限界の先に広がる闇で説明し、その中で改めて「正義」や「悪」を見つめ直したのが『ケイゾク」だったと言えないだろうか。
その私の感覚では、『SPEC』は『ケイゾク』が出した問いに一つの答えを出すものであり、詳しくは書かないが、一つがシュレディンガーの猫、もう一つがパラレルワールド。そして、「正義」と「悪」に変わるものとして提示されたのが、人間の脳の進化としてのSPECだったが、これは『SPEC〜結〜漸ノ篇/爻ノ篇』でまた新たな問題提起がなされ、未だに解決されていない。
全く話題になっていないが、『〜漸ノ篇』のタイトルバックに『ケイゾク』、『〜爻ノ篇』のタイトルバックに『ケイゾクサーガ』という文字が現れたことの意味を、私は問い直していくだろう。

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