【すべてがFになる】すべてがFになる 第1話【、は第5〜6話】

ドラマ『すべてがFになる』が始まった。
一般的に、人気小説のドラマ化というのは、次のような課題があると思う。
1.読者の中で、登場人物の人物像が出来上がってしまっているので、それに沿わないキャスティングに対する抵抗感が起こる。
2.小説のすべてのエピソードを取り入れることは難しいので、省略と、それを補足する部分のさじ加減が難しい。
3.小説の文章と言うのは、読者が「読む」ことで読者の脳にインプットされていくが、小説のセリフを役者がそのまま口にすると、役者というフィルタを通って読者の脳にインプットされるため、違和感を覚えることがある。
さらに、この『S&M』シリーズについては、次のような課題もあるだろう。
4.作品が1990年代後半の理系国立大学を舞台としており、人物設定だけでなく、使用されている装置、とくにコンピュータ関係について、現代とかけ離れている。
5.「理系ミステリィ」と銘打っているだけに、数学やコンピュータサイエンスがストーリの大きな要素を占めているが、これをテレビドラマの短い枠で説明する困難さ。
それでは、これらの事柄を、ドラマではどう処理したのであろうか。


まず、1については、小説の登場人物に対して思い描くイメージというのは十人十色であり、この人物はこの配役であるべきである、というコモンセンスは存在しない。したがって、前にも書いたように、誰が演じてもそれなりに批判を浴びるものである。むしろ、小説がどうのこうのと言うより、ドラマの登場人物としていかに魅力的に描けているかということであり、脚本と演出の腕の見せ所である。
しかし、今のところ、それがうまくいっているとは思えない。犀川も萌絵も、小説では言うなれば「変人」であるわけだが、「変人」っぽくは描かれていない。それはいいのだが、普通の人にすることによって、何を表現しようとしているのかも、分からない。
2については、今のところ、小説からエピソードを抜き取ったものの、ただそれを繋ぎ合わせただけの感じが強く、ドラマとしては説明不足という印象を受ける。
3については、冒頭のシーンなどはまさに小説のセリフをそのまま台本にしてしまっていた。まるで、本をそのまま読んでいるような感じである。しかしこれは、原作を勘案すると、意図的な演出かもしれないので、評価は第6話を見るまで保留である。
4については、時代設定を小説に合わせる方法と、現代(2014年頃)に時代設定を持って来て現代に合わない部分を修正するという2つの方法が考えられる。このドラマでは、後者を採用したようだが、いまのところ、「修正する」というより、「無視」しているようだ。例えば、喜多助教授(准教授)が「イギリスからメールが届く時間」と言うシーン、小説では「イギリスとオーストラリアとチャットするんだ。この時間しかできない」と続くのだが、この部分をまるまるカットしてしまっているため、意味不明なセリフになってしまっている。今後、どのように設定を現代に合わせてくるのか分からないが、あまり期待はできそうにない。
5については、まだ始まったばかりだから、まぁ今後の見物というところだろう。
ドラマが始まっていまいち理解できなかったのが、第1話がシリーズ第1作であり、わざわざ連続ドラマの表題にまでした『すべてがFになる』ではなく、『冷たい密室と博士たち』であることだ。さらに、『すべてがFになる』の冒頭部分を『冷たい密室と博士たち』に移植したことである。主要登場人物を全員、第1エピソードで登場させておきたかった、ということなのだろうか?
さらに、次のエピソードは、小説では5エピソード目である『封印再度』であるというのだ。
…よく分からない。

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。