ドラマ『すべてがFになる』最終回を迎えた。
実は、最初にドラマ化されると決まったときから、不安に思いながら見ていたのである。
それは、『S&Mシリーズ』ありきで決まった企画ではなく、武井咲と綾野剛が主演ということが決まっていて、それに合わせた原作を持って来たのではないかと言うことである。
そして、このシリーズの「普通のミステリー」ではない、オリジナリティを出してくれるのかという不安であった。
まず不安の一つは、ストーリーが2話完結になっていたこと。
原作はまず、背表紙を見て分かる通りの分量で、2話に収めるには原作の大部分をカットする必要があるのである。
結果として、ミステリー部分を追うので精一杯で、このシリーズのオリジナリティが出せていたのかが非常に疑問であった。
そして、前にも書いたとおり、作品が1990年代後半の理系国立大学を舞台としており、人物設定だけでなく、使用されている装置、とくにコンピュータ関係について、現代とかけ離れていること、「理系ミステリィ」と銘打っているだけに、数学やコンピュータサイエンスがストーリの大きな要素を占めているが、これをテレビドラマの短い枠で説明する困難さの2点である。
しかしながら、ドラマの設定はどうやら、1990年代にすることはせず、2014年の現代に設定したと思われる。
さらに困難なのが、犀川や萌絵のエキセントリックさを表現しつつ、キャラクターとして魅力的に描けるかということである。
変人の科学者探偵と言えば、『ガリレオ』シリーズがヒットしてしまったし、金持ちの令嬢と言うキャラクターは、『富豪刑事』や『謎解きはディナーのあとで』に先を越されてしまった。原作はこれらの作品より前であるにもかかわらず、である。
そしてこのドラマでは、犀川の変人ぶりも、萌絵のお嬢様ぶりもいまいち描写することなく、回を重ねて行った。
普通のミステリーとの「違い」を強調することもなく、回を重ねて行った。
それでも次回に期待して見たため、「前回より面白い」という自己暗示をかけて見ていたようなところはある。
しかし、回を重ねるごとに、脚本の原作の分析が深まったのか、単なるセリフの台本へのコピーだったのが、ドラマへのすり合わせが強くなって来たように思える。
そして、『有限と微小のパン』を迎えたわけである。
【新世紀エヴァンゲリオン】『新宿ミラノ座より愛をこめて~LAST SHOW~』【旧劇場版】
新宿にある「TOKYU MILANO」が閉館することから、館内の映画館「新宿ミラノ座」他が本年をもって閉館することとなり、それを記念して『新宿ミラノ座より愛をこめて~LAST SHOW~』というイベントが開催され、過去上映された映画が500円で、日替わり上映されることとなった。
そのなかで、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』が上映されるということで、鑑賞しに行った。
この映画については、自分はリアルタイムでは全く見ていなくて、後追いでしか見ていない。
話はずれるが、映画というのは、その映画が上映されたときの社会情勢や、この映画のようにテレビ版の完結編と銘打たれている場合、そこに至るまでのストーリーを追っている視聴者の心情を背景に成り立っているものであるから、後追いで見ると、完成された映像そのものしか味わうことしかできない。
しかし、この映画については、この新宿ミラノ座で見ることは、当時の状況を少し追体験できる大きな意味があるのだ。
【ケイゾク】アーカイブ・ケイゾクチャット@nifty【2001年1月1日】
BS-iでの集中再放送を機に、@niftyで2001年1月1日0時から開催された、堤監督や植田Pが参加したチャットイベントに潜入することが出来た。
そのときの模様を記録してあったので、再録しておく。
【すべてがFになる】好きにしてもOK【数奇にして模型】
『すべてがFになる』第7、8話『数奇にして模型』。
果たして、このエピソードのドラマ化が可能なのか疑問だったが、テイストは上手く行っていたと思う。
それは、
・誰が犯人かということを物語の主眼に置かない(私は原作のプロローグを読んで、犯人が分かった)。
・常人の思考とかけ離れた犯行の目的。
・フィギュア、コスプレ(笑)、ペットボトルロケットと言った演出。
と言ったことが再現されていたところである。
言い方は悪いが、回を重ねるごとにできが良くなっている印象があって、非常にもったいない。
残念だったのは、毎回のことだが、やはり長い原作を前後編2回にしてしまったため、駆け足になってしまったこと、特に犀川がいかにして寺林にたどり着いたのかが、視聴者に辿れるようになっていなかったことである。
それと、物語の途中でエンドクレジットが流れるという性格上、「真賀田四季」のテロップが、真賀田四季が登場する前に出てしまうため、物語に四季が関与しているという、ドラマ独自の設定がネタバレしてしまったことである。
さて、次回は最後のエピソード『有限と微小のパン』である。これについては、小説が書かれた時代と2014年の乖離について、ドラマとは別に書きたいと思う。
【SPEC】SPEC〜結〜爻ノ篇から1周年【もうどうでもいい】
今日は、映画『劇場版 SPEC〜結〜爻ノ篇』が公開されてから1年、つまり、『SPEC』が完全に終了してから1年の、記念すべき日である。
植田Pが「『結の2』をやって、それをまた4部作で」という話をして、戸田恵梨香さんに一蹴されたという話があり、「戸田恵梨香さん」にとって、「SPEC」は過去の遺物なのである。
ところで、全く違う話をするが、私は学生の時、現代国語の時間が苦手だった。
「この文章で著者はどんな気持ちでこの文章を書いているか」
とか問題を出されて、自分はテレパシーが使えるわけでもないので、「他人の気持ち」なんて分かるかい、と思ってしまっていた。
同じように、ドラマや映画を見るにしても、脚本の意図だとか、演出の意図だとか、出演者の意図だとかは全く理解することができない。実際に触れることが出来るのは、完成した映像作品に現れてくるものだけだ。
プロの評論家だと、インタビューをしたり、他作品への言及などにより、そういった作り手の意図というのは自然に分かるということだ。私はただの素人の駄文書きにしか過ぎないので、「正しい」作り手の意図というのは絶対に理解できない。
そういった、ドラマを見る上での葛藤を解消してくれたのは、『ケイゾク』である。このドラマ、ぶっちゃけ、突っ込みどころ満載なのである。そして、作品としては拡散したまま、ドラマとしては完結した。ここから私なりに読み取ったことは、「こんな作品に、正しい作り手の意図を考えようとすることは無意味だ。したがって、見る人それぞれが独自の解釈をしていいんだ」ということである。
『ケイゾク』の続編的存在(いまではそれすら疑っている)の『SPEC』では、少し様相が違った。「起承転結」の4部作というイメージがあっただけに、特に連続ドラマの「起」では、作り手の作ったレールに沿って物語が展開する様子が、視聴者に容易に見えてくる仕掛けになっていた。そして『翔』では『起』での謎が解決することから解釈の余裕はなくなり、『天』では『結』で解決されるであろう、ということが見る人の解釈の限界となっていた。
ところが、『結』については、完結編である。しかしながら、謎を多く残した。
当然、作り手側の「正しい答え」は提示されない。
これは言ってみれば、バケツに穴が空いた状態で「完結です」と言われているようなものだ。
穴の空いたバケツに水(独自の解釈)を入れる作業は、言って見れば永遠に続けることができるだろう。
しかし、正直、もうどうでもよくなってます。
『SPEC』に関する評価も駄作ということで定まった感がありますし、
WOWOWで再放送されても注目度は上がりません。
いくら『SPEC』に関する記事を書いても、全くアクセスされませんから空しいだけです。
思いを共有した仲間との接触も、どんどん失われて、いや、自らの招いた失態で失っていっていますし、
『第3章』とやらはおそらく、幻だったのだろうと思います。
冷めてます。