【SPEC】ケイゾクを見ていない人のために パート5【ケイゾク】

前回パート4の続きである。
繰り返しになるが、以前、「ケイゾクを見ていない人のために」という記事を書いた。
『ケイゾク』を見ていない人に、『ケイゾク』の魅力を伝えるというのは、このブログの究極の目的であるが、その目的は全く果たせていない。
『ケイゾク』を、『SPEC』を見た観点から批評したものとして最も優れていると思われるのが、このブログの記事「『SPEC』は『ケイゾク2』か?」だと思う。
その論理構成には、一つの回答として、納得させられるが、論理自体には、異論がある。
具体的には、「こうした連続ドラマとしてストーリーとしての強度よりも、その合間の小ネタや小芝居といった『ケイゾクの文脈(コンテキスト)』を積み重ねることを優先するという方法」という部分である。
これに異論を唱える形で、私の論調を、甚だ拙いものであるが、展開させてみる。


『ケイゾク』のテーマとはなんだったのか、ということである。
これは、植田プロデューサーも語っているところであるし、ドラマでも表現されているところであるが、「真実論」である。
この観点からドラマから映画の流れを見ていくと、常に「真実とは何か」ということがテーマとしてあったのではないかと思う。植田プロデューサーがそれを表現することを優先するあまり、ストーリーに様々な矛盾や後付けの部分ができてしまったのは確かだろう。しかし、パート2で一部紹介した西荻弓絵さんの言葉を借りると、様々な人の思いが折り合いをつかないかたちでに暴走し、一つの映像作品として魅せてしまう圧倒的な「パワー」を生んだ。これこそが『ケイゾク』を成り立たせているものであるのは間違いない。上記のブログでは、「熱量」と言っているが、同じことであり、同意する。
確かに、小ネタや小芝居も、『ケイゾク』の中で有効に機能している。しかし、本筋があっての小ネタであって、堤幸彦監督作品には、本筋のストーリーがほとんど空虚で小ネタのみで成立しているというような作品もある。余裕があれば、これらの作品を見ていただけると、『ケイゾク』の小ネタはそれ自身が本筋なのではなく、エッセンスとしてドラマを飽きさせないための工夫なのだということが分かるのではないだろうか。
私が見た中では、『溺れる魚』や『ご近所探偵TOMOE』などが、小ネタで成立している作品に位置する。

さらにいうと、近年の作品に比べると、『ケイゾク』の小ネタはかなり控えめに使われているようである。『SPEC』を先に見た人に『ケイゾク』の感想を聞いたところ、「ギャグが少ない」と言われて、そんなものか、と思った記憶がある。

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