前回パート2の続きである。
以前、「ケイゾクを見ていない人のために」という記事を書いた。
『ケイゾク』を見ていない人に、『ケイゾク』の魅力を伝えるというのは、このブログの究極の目的であるが、その目的は全く果たせていない。
『ケイゾク』を、『SPEC』を見た観点から批評したものとして最も優れていると思われるのが、このブログの記事「『SPEC』は『ケイゾク2』か?」だと思う。
その論理構成には、一つの回答として、納得させられるが、論理自体には、異論がある。
具体的にいうと、『ケイゾク』は物語として破綻しているが、そうした破綻ぶりが物語の魅力である、という部分である。
これに異論を唱える形で、私の論調を、甚だ拙いものであるが、展開させてみる。なお、ネタバレは極力避ける。
今回は、『ケイゾク』の魅力の一つ。ミステリとしての魅力である。
『ケイゾク』放送当初、ミステリマニアから評価されたと記憶している。
『ケイゾク』はミステリである。
「ミステリ(ミステリー)」とは何か。Wikipediaでは、神秘的、謎、不可思議なことをミステリとし、フィクションのジャンルでは事件や犯罪の問題解決への捜査を描いた推理小説などのミステリを用いた創作物と定義されている。
この定義に、ミステリにつきもののトリックという用語が出てこないのが注目に値する。
つまり、一般的にイメージする「トリックを使った事件が起こって、トリックを究明する警察や探偵役の活躍で事件が解決に至る」的なものよりもミステリの概念は広いのであって、いろいろな種類のミステリが存在する。テレビドラマでは表現上の制約から変わった種類のミステリが作成されることは少ないが、『刑事コロンボ』や『古畑任三郎』などの倒叙ものと言われるものは変わった種類のミステリの一つだ。
事件が起き、その事件には解明困難な謎があり、その謎を解くために探偵や刑事が活躍し、物語が進むにつれて謎に対するヒントが提示され、最終的にその謎に対する答えが出され、犯人逮捕(あるいはそれに代わる何か)に至る、というのがミステリの基本パターンである。『ケイゾク』も、この基本パターンに沿って話が進んでいく。
このパターンに沿うことが、ミステリなのであり、ミステリとはジャンルではなく形式なのだろう。
パターンに添いつつ、ミステリの多様性を示すため、『ケイゾク』では仕掛け的に型破りのことを行ったのではないだろうか。
トリックが「後付け」とまで言われてしまうほど無理があるのも、推理小説が生まれて150年もの時間が経過し、どんなトリックを使ったとしてもどこかで使われたものになってしまうぐらい、一般的なトリックでは飽きられてしまう。意図的なものだろう。シャーロック・ホームズの時代から、トリックの無理さ、あるいは成立しないことは、ミステリの面白さをなんら損なうことはない。
その代わりに重点を置かれたのは、ドラマのなかで適切なタイミングで出されるヒントを元に柴田が考える「推理」である。
さらに、「犯人逮捕」あるいは「解決」についても、ある意味儀礼的に行われることもあり、犯人逮捕イコールそれが真犯人の逮捕、あるいは真の事件の解決というわけではないこともある。それは、アガサ・クリスティやエラリー・クイーンといったミステリーの名士の作品にも見受けられるものである。
『ケイゾク』のストーリーのアイデアのなかで、「犯人を逮捕できず、逃げられてしまうエピソード」というのがあったそうだが、それは上記のパターンに収まっていればやはりミステリである。
というわけで、『ケイゾク』は正しくミステリであると考える。